GUMKA工房記

千葉県南流山にあるGUMKAミニチュアの備忘録を兼ねたブログです。

カテゴリ: 記憶の底から

 

 5月20日東京大学五月祭での講演用の原稿を書いているとき、過去の資料を確認するうち、いろんな物を発掘しましたが、その中で「これは!」というネタを紹介します。

 
 私の持っている資料の多くは、社会主義国時代の東欧やソ連の友人から送ってもらったもので、PCもメールもなかったので、郵便でやりとりをしていました。

 チェコポーランド、東独など東欧から発送される郵便物は、手紙も本も写真も問題なく届くのに、ソ連からは雑誌や本はともかく、手紙は遅配や行方不明が、たまにあり、特に戦車の写真が同封される手紙は高い確率で行方不明(未着)になりました。

 ロシア人の友人によれば、本来、第二次大戦中の戦車の写真に関しては、機密もなく問題ないはずなのに、西側行きの手紙に写真が同封されているとわかると、当局によって検閲のため開封され、検閲官は大戦中の戦車か現用戦車かの区別ができないので、とりあえず没収するとのことでした。

 受取る側の私は「まあ、ソ連だからな」と諦めていましたが、発送元である彼は、この仕打ちに、かなり腹を立ており「当局の裏をかく」と息巻いておりました。
 
 ある日、彼から「次回は、雑誌と一緒にIS-3の写真を送る」と手紙が届き、翌月、ソ連の模型雑誌と共に一冊の切手帳が送られてきました。
 
 
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 大祖国戦争がテーマの切手ばかりだったので、最初はプレゼントかな?と思いましたが、一枚の切手が浮いているなと思い、何気なく触ると
 
 
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 あ、IS-3のカラーポジがこんなところに…
 
 
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 これじゃ、まるでスパイ小説です。

 彼によれば、IS-3は第二次大戦中の戦車とは言い切れない微妙な存在なので、当局に没収されないよう工夫したとのことですが、いやいや、そういう問題じゃなくてさぁ…

 このままエスカレートされると彼が逮捕されかねないので、なんとかせねばと考え、ソ連から東欧に写真を送るのは問題なかったため、一旦、チェコの友人宛に送ってもらい、そこから日本に転送する方式に変更し、以降、時間は余計に掛かるものの、無事に写真が届くようになりました。

 もし、私が同じ状況なら、当局に目を付けられるような真似はしませんが、彼曰く「この程度なら逮捕はされない」「万一、呼び出されたら、もっとルールを勉強して社会主義を担う労働者たる誇りを以て職務を遂行しろ、と抗議してやる」とのこと。逞しいのか、アホなのか、反骨精神なのか、はたまた、そういう国民性なのか?

 あまりに衝撃的だったので、切手帳ごと30年くらい保管しておきましたが、講演のネタに使わせていただきました。

模型店時代、しかも駅前に移転する前の旧店舗の頃の話です。
古くからの付き合いのある江戸川区の塗料屋の店主から、
あるとき、尋ねられました。

「高田さんの店では、真鍮パイプとか真鍮線とか扱っている?」

近所に真鍮パイプや真鍮線を製造している工場があって、
現金払いしてくれる取引先を捜しているという話で、
興味があるならと、メモを渡されました。
メモには電話番号と電話の掛け方が書いてあり、
正確な回数とかは覚えていませんが、

「六回呼び出し音を鳴らしたら、一旦切って、5秒の間隔を空けて、
 もう一度、電話して、三回呼び出し音を鳴らしたら、また切って、
 もう一度、5秒の間隔を空けて電話すれば社長が出る」

てな事が書かれてあり、なんとな~くその工場の状況がわかりました。

普通なら、こんな怪しい話は無視でしょうが、
まだ若かったのと、旺盛な好奇心から、ついつい電話してみました。

メモどおりに電話したら「…はい」と女性が出ました。
真鍮パイプの件でO塗料さんから紹介されてと言うと、社長さんの登場。

聞くとはなしに、向こうから事情を話し始めましたが、やはり予想どおりでした。

注文は電話のみ。納品は宅配便で送るので、受取って中身を確認したら、
荷物に付いてくる請求書の金額を指定口座に振り込むというシステムでした。

注文後、2日で品物は届きました。
品質はかなり良かったのですが、請求書と一緒にメモが入っていて、
品質に満足したなら、新しい御客さんを紹介して欲しい旨が書かれていました。

事情が事情だけに、何があるかわからないんで他店の紹介はできず、
もう少し、様子を見てからかな?と思っていたら、
三回目の注文の電話を掛けたとき「お掛けになった電話番号は…」の
NTTの定番メッセージが聞こえました

紹介してくれた塗料販売店の店主に聞いたら、
最近は発注元の要求が品質ではなく、値段になってしまい、
仕事が急速に韓国や中国に流れ始めており、
この界隈でも会社や工場が、どんどん倒産・廃業しているとのこと。
店主も話を持ちかけられたときは「あー、もう長くないな…」と思ったものの、
御近所のよしみで、私を含め数社を紹介したそうです。

丁度同じ頃、問屋で扱っていた麦球や電池ボックス、電極金具、ギアボックスなど
様々な工作素材の供給がなくなりました。生産していた各地の中小・零細企業が
倒産・廃業していたのです。

しばらくして、切れていた工作素材が再入荷した時は、
案の定、ほとんどが中国・韓国製になっていました。

バブルが崩壊して間もない頃の話です。



 1990年代、ヨーロッパには、大小様々なレジン・メタルカーのメーカーがありましたが、その多くは、休業もしくは廃業しました。ある程度の規模で活動していたメーカーは、販売数の減少とか、資金の行き詰りなどの経済的な理由からですが、個人が趣味の延長でやっていたメーカーは、本業が忙しくなったり、好きな車種を出したら、燃え尽きてしまったり、単に飽きたりと、理由は様々だったみたいです。
 
 今回、その一つのブランドの権利を所有している英国紳士様から、模型好きな出資者を確保しブランドを復活させるので、金属素材製作の手配をして欲しい…との相談を受け、二カ月ほど動き回りました。
 
 メタル注型やエッチング、金属挽き物はイギリスでも手配できますが、技術や設備が1980年代で止まっているうえ、コストも高いので日本か台湾、中国で生産したいとのこと。こういう話は嫌いじゃないんで、せっせと動き、こちらの業者手配は、すんなりと進み、見積もりを出しました。
 
 ところが復活するブランドの方向性を巡って「かつての製品を現代の水準に合うよう改修して再販する」と主張する出資者に対して「全く新しいアイテムを開発したい」とブランド・オーナーは考えていたため、真っ向から対立し、紆余曲折あって最終的に、両者は決裂し計画は頓挫しました。残念な結果でしたが、模型に大金を投資してくれるスポンサーが普通にいるという環境は羨ましかったです。一応、私の1/12バイクに出資する気はないか、ダメ元で出資者の方に打診してみましたが、
 
「あのマッハ・レベルで、トライアンフ 500 スピード・ツイン(5T)をやってくれるなら、開発費の60%の投資を考えてもいい。ただしスケールは1/8でな」
 


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「200個生産して、私が実車のオーナーズクラブに掛け合えば、100個は間違いなく引き取ってもらえる。残り100個をヨーロッパとアメリカと日本で売ればいい」
 
「1年後、戦後のテレスコピック型を100個販売し、そのとき旧型も50個ほど再生産すれば、開発資金は回収できて儲けも出る」
 
てな話でしたが、そのアイテムとスケールだと、私が盛り上がらないで無理ですね。40%は自己負担しないといけないし、たぶん日本じゃ売れないし。世の中、うまくいきません。
 
 

まだ弟が、よちよち歩きをしていた頃だから、私が幼稚園生か小学校1~2年頃の夏のある日、祖父と祖母が、かき氷を食べに誘ってくれた。この季節に、いつも行く上野の不忍池の縁日(植木市)、あるいは、柴又帝釈天の参道脇かと思っていたら全然違う場所だった。

 
沢山の人がいる場所だったが、子供がほとんどおらず、幼いながらに緊張した。あまり記憶がないまま、祖父母に引き回され、御茶屋のようなところで、ようやく、約束のかき氷にありつけたときには、もう喉がカラカラだった。
 
かき氷を無心に食べる私に、祖父は、ゆっくり食べんと頭が痛とうなる、ゆっくり過ぎやと氷が溶けよる、とかいう話をし、正面に座った二人の満足気な笑顔は、不思議と覚えている。
 
 
浪人して、予備校通いをしているとき、付き合っていた女の子と神田の古書街に行ったら、イチョウの色づく季節だから、靖国神社へ寄ろうと彼女が言い出した。靖国通りを歩いて行くと、見えてくる大きな鳥居、玉砂利が敷き詰められた参道、脇の休息所…子供の頃、かき氷を食べた謎の場所はここだった。祖父と祖母は、小さな私を連れて、真夏の靖国神社に来ていたのだ。
 
馬鹿な小僧だった私は、長年の疑問が解けた喜びもあって、子供の頃、ここに来て祖父母とかき氷を食べたと彼女に話したら、私よりずっと賢かった彼女は、夏に来たなら、参拝だったと思うよ、戦争で亡くなった親戚とかいないの?と聞き返してきた。
 
彼女の母親のお兄さん、もし生きていれば彼女の伯父さんになるはずだった人は、学徒出陣で動員されて帰らぬ人となっていた。物心ついた頃から、お母さんに連れられ、靖国神社に来ており、ここに来ると、お母さんは涙を流しており、それが、とても悲しかったと話してくれた。
 
 
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「昔、かき氷を餌に連れて行ってくれた場所は靖国神社ですね」
 
祖父には、すぐには聞けなかった。誰と行ったんだ?と尋ねられるのが、こっ恥ずかしかったからだ。そんなモン、適当に誤魔化せばいいのに大間抜けである。
 
大学生の頃、祖父が入院し、病院にお見舞いに行ったとき、看病の祖母を交えてようやく、その話ができた。祖父は、私が覚えていたこと自体が、とても嬉しそうだった。
 
祖父は、ベッドに横になりながら、自分自身は、ああいう場所に行かなくても、思い出しさえすれば、戦死した友人や親戚に、いつでも会えるという考えだが、たまたまな…などと照れ隠しからか、変に斜に構えるようなことを言っていた。しかし、言葉とは裏腹に、いつか孫を連れて、きちんと参拝するつもりだったと祖母が教えてくれた。
 
あのときは、東京オリンピックが終わり、高速道路や新幹線も開通した時代で橋梁会社の重役として、がむしゃらに働いた祖父にとって、こんな子供が元気に暮らせる国に、日本は復興したんだぞ、という事を亡き友人たちに伝えるため、私を一緒に連れて行ったとのこと。
 
当時、拝殿の前で、私は不作法にも、ここはどこかと尋ねたそうだ。祖父は、ここは、おじいちゃんの友達が沢山いるところだから、手を合わせて、挨拶をしておくれ、と言ったらしい。私が、すぐ合掌してくれたのが嬉しかったと。
 
祖母が付け加える。
 
「おじいちゃんは、ここにくれば、みんなに会えるから、寂しくもなんともない。辛くても、また頑張れるとか、あなたに言ってたのよ。さっきの強がりが台無しね」
 
 
 
 
毎年、8月15日が来ると、靖国神社は閣僚の参拝が云々とか、公人か私人かとか、A級戦犯がとか、外交問題がとか、そんな事ばかりが報道される。学者先生や法律や政治の専門家、報道関係者にとっては重要なのかもしれない。
 
自身の思い出から、ここは戦争で大切な人を亡くした人々の気持ちが救われる場所なんだと思っている。
 
 

その1 房総にて

二代目GSX250Eに乗っていた頃だから、1980年代半ばの話です。
外房までツーリングに出掛け、途中、小腹が空いたので、ラーメン屋か定食屋はないかな?と捜していると、うちは歴史ありますから…という風情の食堂がありました。

暖簾は出ているものの、昼飯時を、だいぶん過ぎた時間帯だったので営業しているのか微妙な雰囲気で、引き戸を開け、「あの~、まだいいですか?」と尋ねると演歌歌手の吉幾三を貧乏にした感じの店主が、

「なんだって?」

と耳に手を当てるポーズをしてから、

「なにぃ~、店長さん、男前ですね~だと?!、そう言われたら、料理作るしかあるめぇ、さぁ、入んな、入んな」

もう、これでもかという位、ベタベタですね。そのまま引き戸を閉めて、一気にバイクまで走って逃げるという選択肢もありました。でも、こういう店には、敢えて入るという、私の性(さが)が足を店内に進めてしまいました。

刺身定食か焼魚定食を食べたと思いますが味は思い出せません。 たぶん普通だったのかな?

ず~っと、↑のノリで、しゃべりっぱなし店主の嬉しそうな顔と最初の↑な台詞だけが、疲れたときに限って、頭をよぎります。



その2; バイトのY君

昔、まだ模型店を経営していた頃の話です。

25年の歴史の中、店を手伝ってくれたバイトは、合計7名いたのですが、その最後のバイトがY君で、当時、大学院生か助手に成り立てでした。

教授の手伝いする一方で、自分の論文も書き、後輩の面倒も見るので、きっと疲れていたんだと思います。

ある御客さんから、上司からの理不尽な仕事をこなしたぞという話をカウンター越しに聞いていたのですが、横で話を聞いていたY君が顔を歪め、達観したように…

「みんな、担ぎたくもない神輿を担がされて、祭りのフリをしているだけなんですよ…」

御客さんは冗談を交えつつ、さほどシリアスな様子で話していなかったのですが…

この台詞が選挙のときの街頭演説だの、形だけの会議だの無理矢理引っ張りだされた行事だので、ふと頭に蘇ります。

ピンクフロイドの「Us and Them」を聞いた後みたいな感じですかね?




その3; 祖父の言葉

高校生の頃に言われた言葉です

「人は人と出会うことでしか変われない」

そのときは、そんなことはないんじゃないの?と生意気に思いましたが、
半世紀くらい生きると、つくづく事実だなと思う次第で…

些細な出会い、何気ない出会い、大きな出会い、楽しい出会い、
喜ばしい出会い、悲しい出会い、思い出すだけで腹が立つ出会い、etc

大小あれど、それぞれが何らかの影響を与えてくれたと思います。

一仕事を終え、ふっと気を抜いたとき、
祖父の笑みと共に、頭をよぎる台詞です。


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