GUMKA工房記

模型の企画・設計とロシアのレッドアイアンモデルズの代理店をやっている「GUMKAミニチュア」の備忘録を兼ねたブログです。雨が降ると電車が止まるJR武蔵野線の新松戸と南流山駅の中間辺りに事務所はあります。近所に素材や塗料が揃う模型店がありません。最近、昔からやっている本屋が閉店しました。

カテゴリ: 記憶の底から


 今年の4月の出来事ですが、電車に乗ったとき向かい席にシニア女性とそのお孫さんの小学校2~3年生の女児が座っておりまして。その女性の話す標準語が関西弁アクセント混じりで、ときどき語尾や問いかけが関西弁になるのですが、実は亡き祖父が同じ話し方だったので、数十年ぶりに聞く懐かしさでした。
 もともと大阪堺市に住んでいた祖父は1936年に勤務先の橋梁会社が東京支店を開設したため、同僚たちと共に引っ越してきて、それ以降はずっと関東暮らしでした。

 言葉に関して同僚たちの対応は様々だったそうで、営業担当の人たちは仕事柄、ほぼ全員が標準語をマスターした一方で、設計や技術系など社内に籠る人は関西弁のままが圧倒的で、祖父はその中間で標準語だけどアクセントや語尾が怪しく、話に興じると関西弁に戻るので、子供の頃は周囲の大人とは言葉が違うので不思議でした。
 ちなみに祖母は、毎日の買い物や近所付き合いもあるためかキチンとした標準語を話し、生まれは堺市だけど物心ついたときには関東暮らしだった父は全く関西弁を話しません。

 女性は短い革ジャンにアニマル柄ロングスカート(関東ではレアなアイテムです)、編上ブーツというファッションで黒髪混じりの長い白髪をポニーテールにしている一方、女児は全く普通の小学生で、そのギャップも面白かったのですが、聞くとはなしに聞こえる会話によると女児のお母さん、つまり女性の娘さんの誕生日プレゼントを買いに行く途中でした。それまで通う学校の様子や友達について女児に尋ねていた女性が突然、話題を変え、

「なあ●●●ちゃん、土屋アンナ、知ってるか?」と。

 お孫さんが「知らない」と返すと女性は、自分が若い頃は土屋アンナに似た美人だったので、沢山の男性から求婚されたと話し、

「●●●ちゃんのお母さんも御婆ちゃんの若い頃とソックリで、しかもバッチリ土屋アンナがリアルタイムな時代に学生だったんで、そりゃーもう信じられんほどモテモテやったよ(だったよ、にならない)」

この後、どんだけモテていたかの驚愕のエピソードを語るのですが、これがなかなか凄く、女児のお母さん、電車内で勝手に過去を暴かれ大迷惑だったと思います。

「●●●ちゃんもお母さんに似とる(似てる、にならない)から、大学生やOLになったら(みんなが奢ってくれるので)、財布持たんでも街で御飯食べ放題、酒飲み放題できるで」(こんな直情的表現は関東ではあまり聞かないし、そもそも土屋アンナが何たるかを説明してないまま小学生相手に何を言うのやら)
 女性はスレンダーな体型で目が大きく、マスク越しでもきれいな鼻筋と細面がわかり、土屋アンナが60代になったら、こうなるんだなと納得してしまう容姿でした。

 お孫さんが「御婆ちゃん、声が大きいよ(お孫さんは極めてマトモ)」と注意したら「御免、御免、御婆ちゃん、●●●ちゃんとお出掛けできるが嬉しくて、興奮しているのよ(これはキレイな標準語)」

となって、一気に会話が大人しくなりましたが、とにかく楽しく、そして懐かしい数十分間でした。

 神社からの帰路、子供心に「一つくらいは自分にくれるだろう」と期待したが祖父は竹細工を全て仕舞い込んで、一切触らせてくれなかった。

 高校年のとき祖父と子供時代の思い出話をしていると、この竹細工露店の話題になった。まとめて買った竹細工は浅草の紙箱屋に綺麗な和紙を貼った小箱を別注し、季節の句や謝辞を沿えて、取引先やら偉いさんへの配り物にしたという。

「おもしろいもんでな、箱の蓋を開けて、嬉しそうな顔をした奴は、大概、大成している。なんだこれは?という顔をした奴は、その時、どんな偉そうな肩書きでも、後々、ロクなことになってない」

 長年の謎だった竹細工職人は祖父に連絡してきたのか?連絡があったなら、何を作らせたのか?を尋ねると、祖父は書斎からアルバムを持ってきて、一枚の写真を見せてくれた。それは見事な竹製の手長エビであった。

 本体だけで10cmくらい。長いハサミを入れると25cmほどの大きさで、細い竹の節を生かしたハサミや足、どう加工したのかわからない頭部の細工、胴体の節々や尻尾など見事な作品であった。祖父は展示用の塗り台とガラスケースをあつらえさせ、会社の自室にしばらく飾っていたが、どうしても欲しいというある企業の取締役に根負けし、譲ったという。

「アホな奴はこの細工物を見て、名のある方の作品ですか?とか聞きよる。無名なら、この素晴らしさがなくなるんか」

「美術商や画廊で売っている物だけが芸術と勘違いしている奴が多いがそうやない。演劇や料理、風景、音楽、言葉、行為、行動、製品、感動をさせてくれる物は全てが素晴らしい」

「昔、評論家がTVでヨーロッパの家庭では油絵を飾る習慣があり、芸術に理解がある。我が国も見習わねばみたいなことを言ってたが、私は無知ですと公言しているようなもんだ。春になれば桜を眺め、夏になれば雲を望む。秋には菊の花を愛で、冬には雪をも慕う。庶民ですら素晴らしいと思った小物を傍に置き、江戸時代から根付け細工やキセル金工に血道を上げる。折り紙一つ、盆栽一つとっても、素晴らしいものが国内に沢山あるのに、それに気づいとらんとは哀れや」


 祖父は、この竹細工職人を重用し、その後も、幾つかの一品物を作らせた。自分が幹事となった料亭での会食では、季節の植物をあしらった箸置きを作らせ、最後に、それを参列者のお土産にしたところ、大変に好評で、そこの女将も気に入り、是非にと請われて、料亭に四季折々の箸置きと、揚げ立ての天麩羅を飾る編み籠を納めた。さらに、その箸置きを見た華道家からは竹製の花器を依頼されたという。

 それならばこの職人さんは、今では有名になったんですかと尋ねると、ちょっと寂しそうな顔をした。

「まあ、お前が社会人になったら詳しく話してやるが、結局、この職人は道を踏み外した。才能と努力の積み重ねが一時の欲望に負けた」


 結局、私が社会人になる前に祖父は他界してしまい、詳しい顛末を聞くことはできなかった。ただ祖父の言い回しだけで、彼の身の回りに何が起きたのかは粗方想像がつく。あのとき神社の露店で一生懸命、竹細工を売って旦那さんを支えていた女性は、どうなったのだろう。どれほど真面目な職人であるかを説明してくれた叔母さんは、どう思ったのだろうか。

 桜の季節になると思い出す。


 私が大学生の頃に亡くなった父方の祖父は、ある橋梁会社の重役でしたが、業界では趣味人というか変人として有名だったようです。その業界の御年輩の方と会って自己紹介すると、大概、驚かれ、生前のエピソードを聞かせてもらえました。

 几帳面と真面目、緻密、仕事熱心が服を着たような父とは対照的に、食通、粋、洒落者、達筆、趣味人、目利き、物知り、伊達者、驚くべき頭の良さで、孫の自分から見ても本当に格好良く、到底、真似できない人物でした。
 当然、女性が放っておくはずがなく、そちらの話も様々な方から聞かされたので、つくづく祖母は大変だったと思います。

 そんな祖父と小学生の頃、近所の神社に散歩に行った際、参道に通じる道端で若い女性が露店を出していました。ミカン箱くらいの木箱の上に竹細工のトンボ、エビ、カマキリが置いてあって、前を通ると


「坊ちゃん、トンボよ。どう?見てって、」

と声を掛けてきて、その中の一つを差し出します。

祖父は「ちょっと見せてくれ」とそれを受け取り、しげしげと眺めると「これは、子供のオモチャじゃないだろう」とその女性にこの竹細工について話を聞き始めました。

 作者は彼女の夫で、埼玉県で竹製の籠やザルを作っている職人とのこと。親方の下で修行し独立したものの安価なプラスチック製品に押されて注文は減るばかり。指先の鍛錬と趣味半分で作った虫やエビ、カニなどの竹細工を土産店に売って生活費の足しにしており、この日、店開きしている場所は、叔母さんの家の前で神社の桜が咲き始めたので、週末は人出があると聞き、埼玉からわざわざ行商に来たそう。

「お若いので、てっきり娘さんかと思っていましたが御婦人だったとは。失礼しました」

祖父はそう言いながら竹細工一つ一つを手にして「これで全部ですか?」と尋ねます。


 女性がすぐに裏の家から風呂敷包みを持ってきて広げると、一個づつ綺麗に人形紙に包んである竹細工が幾つか入っていました。

「どうぞ、お好きなのを選んでください」

彼女は丁寧に人形紙を開けてくます。アイテム自体は店頭と同じで、それが複数個ありました。

「うん。じゃあ、全部もらおうか」

 祖父が財布から数枚の千円札を取り出すと、彼女の驚きと喜びようはなかったです。

「釣りはいらないから、旦那さんに美味しいもんでも買ってあげなさい」

 彼女が声を掛けると裏の家から叔母さんが出て来て、二人で何度も御礼を言った後、お茶を御馳走したいので、ぜひ上がってくれと請われた。祖父は丁重にそれを断ると、名刺を出し、

「あんたの旦那さんに作ってもらいたいものがある。ここに連絡するよう伝えてくれ」

 彼女は、まるで割れ物でも扱うように丁寧に名刺を仕舞います。

「必ず連絡させます」


 そう言う彼女の横で叔母さんは彼女の旦那さんが、いかに良い腕を持っていて、真面目な職人であるかを一生懸命に説明していました。


 「古き良き日本」というフレーズを聞くたびに思い出すのは、子供の頃に見たこの光景です。丁寧な仕事をする職人、それを献身的に支える妻、若い夫婦を応援する叔母、そして祖父の粋。 あたかも調和がとれた映像作品のようでした。


(続く)


 今は農業をやっているWさん(60代前半)は元編集者で、趣味は釣りとソロキャンプ。大学生の頃から中古のオフロードバイクに寝袋とテントと釣り道具を積んで、いろんな場所で野宿していました。
 旅先で不思議な体験もしており、某離島の山道を歩いていたら、急に身体が動かなくなったというライトなものから、はっきりと姿を見たというヘビー級までありますが、今回は、そのはっきり姿を見た話を聞かせていただきました。


 今から約20年前、まだWさんが40代の頃です。当時は都内で編集者として働いていましたが、大変だった仕事が終わり、気分転換にT県のキャンプ場に行くことにしました。

 アニメやドラマにもなった人気コミック「ゆるキャン」の影響からか、冬でもキャンプをする人が増え、今では通年営業しているキャンプ場も普通にありますが、当時はゴールデンウィーク辺りから大学の夏休み終わり頃(9月下旬)までの営業が一般的でした。
 そこも夏は事務所に管理人が常駐していますが、オフシーズンは基本的には休業で、知人や常連は事前に予約すると利用できるシステムでした。

 このときも10月でオフシーズンだったため、管理人さんに電話をすると「ゲートの鍵の隠し場所を教えるから、好きな時間に入って、帰るときに忘れず施錠して鍵を元の場所に隠しておいてね」「自分の出したゴミは全部、持ち帰ってね」とのことでした。

 車でキャンプ場に到着したのは午後3時頃。テントを張り、テーブルとイスを出し、ランタンをセットして食事の準備を始めます。日が暮れるタイミングで夕食にし、後は飲みながら、ランタンの明かりで持ち込んだ長編コミックを読んでいましたが、夜10時過ぎには酔いが回り、冷えてきたのでテントで寝ることに。

 トイレに行きたくて目が覚めたのは夜中の3時頃でした。用を済ませて夜空を見上げると、空気がきれいで、周囲に明かりが全くなく真っ暗だったので、様々な秋の星座を確認でき、思わず座り込んで、しばらく見とれていました。

 暗がりに目も慣れてきた頃、ふと人の気配を感じたので、その方向を見ると、キャンプ場の入り口から10mほど先の道に一人の女性が立っています。月明りだけなので、顔はよく見えなかったものの、遠目にもスタイルが良く身長も170㎝はあり、10月の夜なのに白っぽいノースリーブのシャツにハーフパンツ姿でした。

 服装こそ違和感があったものの、相手がはっきりと見えていたので「こんな時間にキャンプ場に?でも車がないぞ?まさか道路灯もない山道を女性一人で徒歩で登ってきたのか?いや、そんなはずないよな。もしかして彼氏と喧嘩して自分から車を降りて歩いているパターンか?」などと妄想を巡らせていました。

 女性は、こちらを気にする素振りもなく、道路から脇の林に入ると、滑るようにスーっと斜面を(早足で?)下って行き、そのまま藪の中に消えました。そこで「あれは絶対に人ではない!」と急に怖くなってテントに逃げ込み、寝袋に潜って朝を待ちました。

 夜が明けてから、女性が立っていた辺りを確認しましたが、下に向かう道や階段はなく、林の傾斜面も降りられなくはないけど、足元を照らす明かりなしで、あの速度で下るのは、かなり危険だったそうです。

 後日、管理人さんと会ったときに、この女性の話をしたところ、

「深夜に道路脇に立つ女性の話なら、キャンプ場の利用者や、あの道を通る人から聞いたことはある。でも、私は夏休みの期間中は毎日、キャンプ場で寝泊まりしているけど、一度も見たことない」

「もし幽霊だったとしても、熊やイノシシの方がずっと怖い」

とのことで、あんまり気にしている風ではなかったとのこと。

 その後、このキャンプ場を利用したものの、女性を二度と見ることはなく、キャンプ場が廃業した後は、その近所に行くこともなくなったそうです。



 
 

 

模型店を開業して間もない頃の話です。

 あるとき、名刺の肩書は不動産会社の社長で優しそうな紳士だけど、運転手と御付の部下がどう見ても堅気ではないSさんという御客さんが来店し、タミヤの
1/12フェアレディZと赤い缶スプレーを買って行きました。二週間後、再度来店いただきニコニコしながら

「いや~欲しかったのはフェラーリだったけど、フェアレディと間違えちゃってさぁ」

一瞬、うわ、これは因縁を付けられるヤバいパターンかと思ったら、


「作って楽しかったよ。タミヤは1/12でレーシングカーでないフェラーリは出してないの?」

となって、それ以降、1/121/16の大きな車を買ってくれる良いお客さんに。

 
あるとき、オオタキ(当時は、まだ活動していた)の1/16トヨタ2000GTを頼まれ「これ私の直通だから。(模型が)入ったら、この番号に掛けてよ」とメモを渡されました。当時は、まだ携帯電話が普及しておらず、それまで注文をもらったキットの入荷連絡は会社の代表電話にしていました。


 たまたま問屋に在庫がなく、少し時間が掛かったものの、入荷したので教えられた番号に連絡しました。電話に出たのはSさんではない別の男性でした。

「はい」

としか言わないので

「こちらはSさんの御電話でよろしいでしょうか?」

と尋ねたら、ちょっと怒ったような声で

「何でこの番号知ってんだ?お前、誰?」

「Sさんから御贔屓にしていただいる模型店で、御注文をいただいたオオタキのキットが入荷したので御連絡しました」

と説明したものの取り次いでくれる様子はないので仕方なく

「御注文の模型が入ったとお伝えください」

とお願いして電話を切った直後に、Sさん本人から折り返しが。

「ごめんね~マスタ~、不愉快な思いをさせちゃって。口のきき方を知らない奴でさぁ。ちゃんとコツンしとくから許してね」

翌日、Sさんがキットを引き取りに来てくれました。そのときも部下の非礼をお詫びいただきましたが「全然、気にしてないですから」としか言えません。もちろん、コツンは具体的に何をするのか怖くて聞いていません。



 

 

 5月20日東京大学五月祭での講演用の原稿を書いているとき、過去の資料を確認するうち、いろんな物を発掘しましたが、その中で「これは!」というネタを紹介します。

 
 私の持っている資料の多くは、社会主義国時代の東欧やソ連の友人から送ってもらったもので、PCもメールもなかったので、郵便でやりとりをしていました。

 チェコポーランド、東独など東欧から発送される郵便物は、手紙も本も写真も問題なく届くのに、ソ連からは雑誌や本はともかく、手紙は遅配や行方不明が、たまにあり、特に戦車の写真が同封される手紙は高い確率で行方不明(未着)になりました。

 ロシア人の友人によれば、本来、第二次大戦中の戦車の写真に関しては、機密もなく問題ないはずなのに、西側行きの手紙に写真が同封されているとわかると、当局によって検閲のため開封され、検閲官は大戦中の戦車か現用戦車かの区別ができないので、とりあえず没収するとのことでした。

 受取る側の私は「まあ、ソ連だからな」と諦めていましたが、発送元である彼は、この仕打ちに、かなり腹を立ており「当局の裏をかく」と息巻いておりました。
 
 ある日、彼から「次回は、雑誌と一緒にIS-3の写真を送る」と手紙が届き、翌月、ソ連の模型雑誌と共に一冊の切手帳が送られてきました。
 
 
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 大祖国戦争がテーマの切手ばかりだったので、最初はプレゼントかな?と思いましたが、一枚の切手が浮いているなと思い、何気なく触ると
 
 
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 あ、IS-3のカラーポジがこんなところに…
 
 
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 これじゃ、まるでスパイ小説です。

 彼によれば、IS-3は第二次大戦中の戦車とは言い切れない微妙な存在なので、当局に没収されないよう工夫したとのことですが、いやいや、そういう問題じゃなくてさぁ…

 このままエスカレートされると彼が逮捕されかねないので、なんとかせねばと考え、ソ連から東欧に写真を送るのは問題なかったため、一旦、チェコの友人宛に送ってもらい、そこから日本に転送する方式に変更し、以降、時間は余計に掛かるものの、無事に写真が届くようになりました。

 もし、私が同じ状況なら、当局に目を付けられるような真似はしませんが、彼曰く「この程度なら逮捕はされない」「万一、呼び出されたら、もっとルールを勉強して社会主義を担う労働者たる誇りを以て職務を遂行しろ、と抗議してやる」とのこと。逞しいのか、アホなのか、反骨精神なのか、はたまた、そういう国民性なのか?

 あまりに衝撃的だったので、切手帳ごと30年くらい保管しておきましたが、講演のネタに使わせていただきました。

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