実は戸田に行ったのは二度目で、最初は今から20年以上も前、浪人時代か大学1年の頃でした。

 

「西伊豆の戸田には、かつて沢山の外人がいて、その名残で色白の美人が多い。戸田は陸の孤島なんで、人の行き来が少なく、それが代々、受け継がれた。夏になると、海水浴場の傍の屋台で、そんなキレイな娘が沢山、バイトしている」

 

 高校時代の友人が怪しげな情報を掴んできまして。今のようにネットもGoogleもなく、情報の真偽確認が困難な時代だったので、半信半疑ながらもキレイな娘が沢山というフレーズのみに期待し、三人で行ってみました。

 

 もちろん、これを読んでいる皆さんの推測どおり、この情報は全くのガセで、鉄道駅こそないものの、沼津港や清水港から船はあるし、修善寺からバスもあるので戸田の人の往来は頻繁でした。海水浴場には海の家や屋台が出ていましたが、働いているのは怖そうなお兄さんとオバチャン。僅かにいる若い娘はヤンキーのお姉さんでした。

 

 当然ですが出会いなんぞ、1mmたりともありません。二泊三日の旅行中、ガセ情報を持ってきた友人を幾度か責めつつ、浜辺で泳いで昼寝して、それなりに楽しんで帰ってきました。こんな不確かな情報で、電車やバスを乗り継いで戸田まで行ったのは、やはり若さですね。

 

あれから時は流れ、再び戸田を訪れて、当時の海水浴場に行ってみましたが、ほとんど変わらぬ風景。

 

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海水浴場から、ほど近い場所に戸田造船郷土資料博物館があり、そこを見学して、例のガセ情報のルーツがわかりました。

 

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 嘉永7年(1854年)10月、ロシア皇帝ニコライ1世の命を受けて日本との国交交渉をすべく、下田に入港した帝政ロシア海軍のプチャーチン提督は、安政の大地震による津波と、その後の強風で、自らの船、ディアナ号を失います。プチャーチン一行の総勢約500名は戸田に留まり、ロシアに帰るための船を作ることにし、地元の船大工に協力してもらって三ヶ月で100トンの帆船「ヘダ号」を完成させます。

 

 このヘダ号は我が国で初めての洋式船舶でした。プチャーチンは、この船で見事に帰国を果たし、船が小さかったため乗り切れなかった乗員たちもドイツとアメリカの船で帰国をします。

 

 まるで、小説や映画のような話ですが、おそらく、この話が歪んで伝わって、120余年の月日を経て、昭和50年代に若人三人が騙されたわけか、と納得でした。

 

戸田には、かわいい猫が多く、Y氏曰く、「プチャーチン提督のペットだった猫の末裔ですわぁ!」

 

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Y氏、猫好きですが、元TVマンなので、血液の代わりにウソ液が流れています。

 

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資料博物館の裏にあった千石船の四爪錨と謎の球体。たぶん、米軍が戦時中、敷設した機雷?

 

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締めは、縁起物の赤富士で。これを拝めば、あなたの運気が開けます。

 

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