GUMKA工房記

模型の企画・設計と資料同人誌の販売をやっている「GUMKAミニチュア」の備忘録を兼ねたブログです。雨が降ると電車が止まるJR武蔵野線の新松戸と南流山駅の中間辺りに事務所はあります。近所に素材や塗料が揃う模型店がありません。最近、昔からやっている本屋が閉店しました。

2021年08月

 ライド・オン・タンクスでは、ざっくりと戦車帽全般について書きましたが1920~1940年代の戦車帽は、極初期のブジョノフカ型(1920年型?)、1931年型、1934年型、1936年型、1941年型の五種類がありました。

 ソ連邦が建国して間もない頃の労農赤軍の戦車兵は「シェルム(ヘルメット、保護帽)」と呼ばれるブジョノフカ型の革製戦車帽を使っていました。下の写真の向かって右側は士官用の黒色、左は下士官・兵士用のカーキ色の戦車帽で、どちらも正面に赤星が付いています。
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 黎明期の労農赤軍らしいスタイルですが、本来の目的である頭部の保護には有効でなかったようで、1931年に緩衝用パッドを十文字配置した新しい戦車帽に切り替わります。この1931年型戦車帽は写真が極めて少ない珍品です。
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 実際に使ってみると1931年型戦車帽でも頭部の保護に不十分だったようで、1934年に緩衝用パッドのレイアウトを全面的に見直した戦車帽が登場します。
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 中央部と側面に各三本の緩衝用パッドが付いた1934年型戦車帽はイヤホンの装着ができないだけで、戦後まで続くソ連戦車帽の基本的なスタイルを既に確立しています。1936年型が登場した後も無線機を搭載していない軽戦車の戦車兵は、1934年型戦車帽を使い続けたため、情報が少なかった冷戦時代には「軽戦車用の戦車帽では?」と推測する西側の研究者もいました。

(続)



*戦車帽以外の軍装についてはアーマーモデリング誌2020年9月号を読んでください。


 今月号のアーマーモデリング誌のライド・オン・タンクスでソ連戦車兵の軍装について解説しましたが、当然のことながら文字数に限りがあったので補足です。軍装全般については敢えて書かないので、アーマーモデリング誌を読んでください。

 ソ連戦車兵用の手袋は「コジェヌィエ・ペルチャトキ・ス・クラーギ」、略して「コジェヌィエ・クラーギ(クラーギ手袋)」と呼ばれます。クラーギとは何ぞや?と露和辞書で調べると革製ゲートルとか長手袋の腕周りと書いてあるので、昔から「長い革手袋のことだろう」と漠然と思っていたのですが、今回、記事を書くにあたり、詳しいロシア人に教えてもらいました。
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 「クラーギの語源は、オランダ語のKraag(クラーク)で、もともとは襟という意味だ」「18世紀に甲冑のガントレットが手首に襟が付いたように見えたので、このように呼ばれるようになった」「ガントレットと同じ形だから、この形の手袋のこともコジェヌィエ・クラーギと呼ぶ。つまり、ガントレットグローブのことだ」

 いや~長年の精神的残尿感が解消しましたとも。御存知の方も多いと思いますが、ガントレットは剣道の籠手に相当する西洋甲冑の防具です。
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 言われてみれば、コジェヌィエ・クラーギは、バイク用のガントレットグローブと形状が同じですね。いつも身近に見ていたのに全然、繋がらなかったです。

 


 現在、販売中のアーマーモデリング誌9月号の連載記事「ライド・オン・タンクス」でアルパインのフィギュアに絡めて第二次大戦中のソ連戦車兵の軍装について解説しました。

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 作例の担当は國谷忠伸さんで、各段階ごとに撮影した写真を使い、ステップ・バイ・ステップでわかり易く解説しているので、ぜひご覧ください。

 本号の巻頭特集は「水」の再現方法ですが、今までも集大成ともいうべき内容で、一読の価値ありです。 

 神社からの帰路、子供心に「一つくらいは自分にくれるだろう」と期待したが祖父は竹細工を全て仕舞い込んで、一切触らせてくれなかった。

 高校年のとき祖父と子供時代の思い出話をしていると、この竹細工露店の話題になった。まとめて買った竹細工は浅草の紙箱屋に綺麗な和紙を貼った小箱を別注し、季節の句や謝辞を沿えて、取引先やら偉いさんへの配り物にしたという。

「おもしろいもんでな、箱の蓋を開けて、嬉しそうな顔をした奴は、大概、大成している。なんだこれは?という顔をした奴は、その時、どんな偉そうな肩書きでも、後々、ロクなことになってない」

 長年の謎だった竹細工職人は祖父に連絡してきたのか?連絡があったなら、何を作らせたのか?を尋ねると、祖父は書斎からアルバムを持ってきて、一枚の写真を見せてくれた。それは見事な竹製の手長エビであった。

 本体だけで10cmくらい。長いハサミを入れると25cmほどの大きさで、細い竹の節を生かしたハサミや足、どう加工したのかわからない頭部の細工、胴体の節々や尻尾など見事な作品であった。祖父は展示用の塗り台とガラスケースをあつらえさせ、会社の自室にしばらく飾っていたが、どうしても欲しいというある企業の取締役に根負けし、譲ったという。

「アホな奴はこの細工物を見て、名のある方の作品ですか?とか聞きよる。無名なら、この素晴らしさがなくなるんか」

「美術商や画廊で売っている物だけが芸術と勘違いしている奴が多いがそうやない。演劇や料理、風景、音楽、言葉、行為、行動、製品、感動をさせてくれる物は全てが素晴らしい」

「昔、評論家がTVでヨーロッパの家庭では油絵を飾る習慣があり、芸術に理解がある。我が国も見習わねばみたいなことを言ってたが、私は無知ですと公言しているようなもんだ。春になれば桜を眺め、夏になれば雲を望む。秋には菊の花を愛で、冬には雪をも慕う。庶民ですら素晴らしいと思った小物を傍に置き、江戸時代から根付け細工やキセル金工に血道を上げる。折り紙一つ、盆栽一つとっても、素晴らしいものが国内に沢山あるのに、それに気づいとらんとは哀れや」


 祖父は、この竹細工職人を重用し、その後も、幾つかの一品物を作らせた。自分が幹事となった料亭での会食では、季節の植物をあしらった箸置きを作らせ、最後に、それを参列者のお土産にしたところ、大変に好評で、そこの女将も気に入り、是非にと請われて、料亭に四季折々の箸置きと、揚げ立ての天麩羅を飾る編み籠を納めた。さらに、その箸置きを見た華道家からは竹製の花器を依頼されたという。

 それならばこの職人さんは、今では有名になったんですかと尋ねると、ちょっと寂しそうな顔をした。

「まあ、お前が社会人になったら詳しく話してやるが、結局、この職人は道を踏み外した。才能と努力の積み重ねが一時の欲望に負けた」


 結局、私が社会人になる前に祖父は他界してしまい、詳しい顛末を聞くことはできなかった。ただ祖父の言い回しだけで、彼の身の回りに何が起きたのかは粗方想像がつく。あのとき神社の露店で一生懸命、竹細工を売って旦那さんを支えていた女性は、どうなったのだろう。どれほど真面目な職人であるかを説明してくれた叔母さんは、どう思ったのだろうか。

 桜の季節になると思い出す。


 私が大学生の頃に亡くなった父方の祖父は、ある橋梁会社の重役でしたが、業界では趣味人というか変人として有名だったようです。その業界の御年輩の方と会って自己紹介すると、大概、驚かれ、生前のエピソードを聞かせてもらえました。

 几帳面と真面目、緻密、仕事熱心が服を着たような父とは対照的に、食通、粋、洒落者、達筆、趣味人、目利き、物知り、伊達者、驚くべき頭の良さで、孫の自分から見ても本当に格好良く、到底、真似できない人物でした。
 当然、女性が放っておくはずがなく、そちらの話も様々な方から聞かされたので、つくづく祖母は大変だったと思います。

 そんな祖父と小学生の頃、近所の神社に散歩に行った際、参道に通じる道端で若い女性が露店を出していました。ミカン箱くらいの木箱の上に竹細工のトンボ、エビ、カマキリが置いてあって、前を通ると


「坊ちゃん、トンボよ。どう?見てって、」

と声を掛けてきて、その中の一つを差し出します。

祖父は「ちょっと見せてくれ」とそれを受け取り、しげしげと眺めると「これは、子供のオモチャじゃないだろう」とその女性にこの竹細工について話を聞き始めました。

 作者は彼女の夫で、埼玉県で竹製の籠やザルを作っている職人とのこと。親方の下で修行し独立したものの安価なプラスチック製品に押されて注文は減るばかり。指先の鍛錬と趣味半分で作った虫やエビ、カニなどの竹細工を土産店に売って生活費の足しにしており、この日、店開きしている場所は、叔母さんの家の前で神社の桜が咲き始めたので、週末は人出があると聞き、埼玉からわざわざ行商に来たそう。

「お若いので、てっきり娘さんかと思っていましたが御婦人だったとは。失礼しました」

祖父はそう言いながら竹細工一つ一つを手にして「これで全部ですか?」と尋ねます。


 女性がすぐに裏の家から風呂敷包みを持ってきて広げると、一個づつ綺麗に人形紙に包んである竹細工が幾つか入っていました。

「どうぞ、お好きなのを選んでください」

彼女は丁寧に人形紙を開けてくます。アイテム自体は店頭と同じで、それが複数個ありました。

「うん。じゃあ、全部もらおうか」

 祖父が財布から数枚の千円札を取り出すと、彼女の驚きと喜びようはなかったです。

「釣りはいらないから、旦那さんに美味しいもんでも買ってあげなさい」

 彼女が声を掛けると裏の家から叔母さんが出て来て、二人で何度も御礼を言った後、お茶を御馳走したいので、ぜひ上がってくれと請われた。祖父は丁重にそれを断ると、名刺を出し、

「あんたの旦那さんに作ってもらいたいものがある。ここに連絡するよう伝えてくれ」

 彼女は、まるで割れ物でも扱うように丁寧に名刺を仕舞います。

「必ず連絡させます」


 そう言う彼女の横で叔母さんは彼女の旦那さんが、いかに良い腕を持っていて、真面目な職人であるかを一生懸命に説明していました。


 「古き良き日本」というフレーズを聞くたびに思い出すのは、子供の頃に見たこの光景です。丁寧な仕事をする職人、それを献身的に支える妻、若い夫婦を応援する叔母、そして祖父の粋。 あたかも調和がとれた映像作品のようでした。


(続く)

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