歴史の中で人物や事象の評価は、体制や時代によって変わり、英雄が悪人になったり、暴動や動乱と呼ばれた衝突が革命となったり、その逆も、またしかり。
 
 個人の思い出も同じで、当時は腹立たしくて仕方なかったことが、今では笑い話になったり、若い頃の何気ない選択が後々に大きなターニングポイントだったり…時代によって思い出の評価は変わると思っていましたが、つい最近、評価どころか、思い出自体が自分の中で変わっているのか?と思わせることがありました。
 
 それが先週の土曜日に出席した40余年ぶりの高校の同窓会です。とっても楽しかったのですが

「部活は○○部だったよね」 「○○大学に進学したんだっけ?」 「確か就職は金融関係?」

などの基本ネタは相互認識が成立し、「そうそう」と話題が進むのに大して、当時の個人エピソードは、こっちが覚えていることを向こうが忘れていたり、逆に

「春休みに行った伊豆大島の旅行、散々だったよね」

としみじみ語られたけど、こっちが記憶になかったり、結末の記憶が全く違っているとか、エピソードは合っているけど参加メンバーが微妙に入れ替わっていたり…「いや、それ絶対に俺じゃないぞ」や「違う!」などが連発。
 
 40年くらい経つと、自分を含めて人の記憶というのは、こんなにも、あやふやになるんだと再認識しました。よく「最近のことは忘れるけど、昔のことは覚えている」と言いますが、あれは本当は「最近のことは忘れるし、昔のことは記憶を都合良く改編して覚えていると信じ込んでいる」だなと。
 
 ちなみに「名前で検索するとソ連の戦車の本を書いている人がいるけど、あれは同姓同名?まさか本人?」これについては「俺だ。正確には翻訳な」と胸を張って答えられました。昔から模型とか作っていたけど、まさかなぁ、と思っていたそうです。