「なぜハーレーだけが売れるのか」を読んで
国産バイクが不振の昨今、ハーレーダビッドソンだけは売れているそうです。私と同年代の40代後半から50代前半で、1980年代にバイクに乗っていた人ならハーレーには良い印象がないでしょう。
当時、AMF傘下のハーレーは高価なのに品質は問題だらけ。ツーリング先で故障したハーレーの横で立ちすくす、いかにもな格好をしたライダーを見たのは一度や二度なんて甘いもんではないです。
オイルがジワジワどころかポタポタと漏れたり、急にエンジンが掛からなくなったり、エンジンから異音がしたりと、あらゆる故障が発生するのですが、部品供給や専用工具の問題で、普通のバイク店では修理できません。かくして輸入バイク専門店で高い修理代を払うか「安く直してやる」と囁く怪しげな修理店に運を委ねる羽目になるのですが、どっちにしろ、また壊れるので、まさに無限地獄。
パンク修理2万円だの、OHではなくエンジンをちょいと整備するだけで20~50万円、転けたらン十万円だのの、高い修理代と言い値の部品代の横行が都市伝説化しており、ハーレーを買うのは余程の好事家か何も知らない金持ちだけと言われており、当然、憧れの対象とは程遠いブランドでした。
もちろん、今のハーレーが20数年前とは比較にならないくらい品質向上し修理代や部品代も明朗で、サービス網も改善されてることは頭では理解しています。ただ、若い頃に見た数々の悲惨な光景や怪しげな噂話は簡単に記憶から消去できません。だって人間なんだもん。
そんな印象が多少は変わるかと思い、日本経済新聞社から出版された「なぜハーレーだけが売れるのか:水口健次著」を読みました。出版元からビジネス本かと勝手に思っていましたが、内容はハーレー・ジャパンの奥井社長への礼賛のオンパレードで、ハーレーファンなら随喜の涙を流すでしょうが、冒頭に書いたような思いしかない自分にとっては「なんだかな~」が正直な感想です。
インタビューや資料を中心に成功談を解説するのは、この種のビジネス本のセオリーですが、参考になるか否かは、著者の客観的かつ的確な分析力と文章力にあります。残念ながら、この著者は「戦略デザイン研究所代表取締役所長」という、私なんぞは足下にも及ばない御立派な肩書きをお持ちですが、インタビューは浅い質問ばかり。こんな御大層な肩書きがなくとも、もっと鋭い突っ込みや質問ができるライターは沢山いるでしょう。せっかくの本人へのインタビューも合いの手程度の茶々を入れるだけで、途中に深い私見や分析はほとんどありません。
文章も読み辛くはないものの、サラサラと流れる感じで心に残るものはナシ。行間に含みを持たせる筆法も、読者に余韻を残す言い回しも無縁です。すべての事柄を「奥井戦略」という単語で簡単に片付け、巻末に高校生の感想文程度のまとめを書いたうえで導いた結論は「奥井リーダーシップは個性的なんです」このおっさん、大丈夫か?
仮にハーレー・ジャパンの新入社員に読ませる教材なら、この内容でもOKですが、一般書店で売る本でこれは、あまりにもお寒い。もしかして、ハーレー・ジャパンが店頭やイベントでパンフレット代わりに配るために、一定部数をまとめて買い取る契約でもあったのかと邪推したくもなります。
もちろん、この本を読めばハーレーの勝因が「世界観の構築」「価値観への共鳴」「価格の保証と維持」「イベントによる新規顧客の開拓」「販売店の管理と教育の徹底」にあること位はわかります。
村社会が大好きがDNAに組み込まれている日本人は組織や集団への帰属意識が強いので、ある程度の資金を投じて価値観が裏付けされた閉鎖的な組織なり集団を構築し、そこに誘い込んで組織の発展ぶりと充実した(ように見える)人間関係を見せて、自分も仲間になりたいと思わせれば商売的に成功するということは知られています。ハーレー・ジャパンの展開は、まさこれで似た例が東京ディズニーランドです。
経済素人の私が知っている程度の知識なんだから経営や商品戦略を学んだ専門家なら、常識以前のことでしょう。それをあたかも大変な新システムのように書き、「奥井リーダーシップは個性的なんです」で結論。「なんだかな~」久々に読んでがっかりした本でした。
あ、当然、ハーレーへの思いも変わっていません。
その4 キャタピラと転輪
すでに生産済みで倉庫に保管されています。
転輪は九七式に似ていますが、もちろん別物です。
キャタピラは、ちょっとエレファント自走砲に似た独特の表面パターンと形状ですが、
モデルカステンのSKシリーズのような可動式でも、
ドラゴンのマジックトラックのような切り離し済みでもありません。
まあ、プラスチック製なので、メタルやレジン製キャタピラに比べれば、
接着や組み立てが容易です。
品番V-02 BM-13N スチュードべーカー・カチューシャ
安価に生産可能なうえ、様々な車輌に発射架を設置できるので、第二次大戦中に量産され、
T-34戦車、IL-2対地攻撃機、PPSh-41機関銃などと共に「勝利の兵器」として称えられています。
これまで、カチューシャのプラモデルは、ZIS-151ベースの戦後型がズベズダ(旧イタレリ)からと、大戦前半に活躍したZIS-6カチューシャがアランホビーから出ていました。
当社のレジンキットはレンドリース(武器貸与法)によって、
アメリカがソ連に大量に供与したスチュードベーカー6×6トラックをベースとしています。
このタイプのカチューシャは、1943年より戦場に登場し、大戦中、最も多用されました。
バグラチオン作戦、ベルリン戦など、大戦後期の東部戦線の情景には欠かせぬアイテムです。
内容はレジン、エッチング、インジェクションパーツの複合素材キットで、
アメリカ製トラックの特徴でもあるフロントグリルはエッチングで精密再現し、
このキットの見せ場の一つです。治具もセットして、組み立て易さも考慮しました。
また、簡単にグリルが組めるよう、厚手のエッチングを4枚張り合わせるだけの
簡易組み立てパーツもセットしました。
御自身の技術力と、時間と入れ込みで選択できます。
品番はV-02、商品名は「BM-13N スチュードべーカー・カチューシャ」で200個生産しました。
原型製作はシュビムワーゲンtype128同様、佐藤 豊氏です。
実は、このアイテムが決まる前に、八九式戦車の原型を御願いしたのですが、
色好い返事がもらえず、先にアメリカのトラックを作りたいとの希望を出されたので、
このレンドリースアイテムを先に発売しました。
ただ売り切るまでに時間が掛かり、商売的には成功とは言えず、
次アイテムの開発まで、間が空く結果となりました。
友人の死
20代や30代の頃には考えられなかったが、45才を過ぎた辺りから喪服を着る機会が増え、自分の年齢をしみじみと感じるようになった。
今から6年前の2002年7月末に、古い友人のMの長兄から一本の電話があった。敢えて意図的とも思えるような淡々とした口調で、5月に彼が亡くなったと告げた。そして一呼吸おくと
「故人の希望で、葬儀は親族だけの密葬とし、友人や知人への通知は、四十九日を過ぎてからだったもので…」
と、こんなにも連絡が遅れてしまったことを丁寧に詫びていた。
友人とは言っても、M氏は二才年上で大学時代にバイト先で知り合った。実家は地主で不動産業と運送会社、倉庫業を経営する資産家で高校時代から父親のアメリカ製オートバイ、ハーレーダビッドソンに乗り、大学入学と同時にコルベットとBMW R90Sを入学祝いとして新車で購入してもらい、車はフォードのマスタングを経てポルシェ911に変わり、卒業後は定職に就かず、自分捜しの名目で綺麗な女性を追い求め、全国を放浪していたと言えば、大体、人物像が知れるだろう。
正直に言って「違う世界に住んでいる人間」だったので親密にしていたわけではなかったが、猛烈に模型とバイク好きだったので、妙に話が合い、模型店巡りに付き合ったり、一緒にツーリングに行ったりはした。
私が模型店を始めた頃は、たまに遊びに来てもくれたが、ある時「輸入アクセサリーの店を始める」と言ったのを最後に、ぷっつりと来なくなり、私も忘れていた。 ところが2001年の年末に突然、本人から連絡があった。
「部屋を整理していたら、借りっぱなしの本が出てきた。返したいので、すぐ会いたい」
そもそも本を貸した記憶はなかったし、年末の忙しさもあったので、年明けか、急ぐなら送料着払いの宅配便で送ってくれと頼むと、どうしても手渡ししたいし、なるべく早く会いたいと言う。相変わらず勝手だなと思いながらも、教えてもらった都内のマンションを訪ねた。
家族四人が余裕で暮らせる部屋を借りて一人で住んでおり、月の半分くらいは、母親が様子を見に来るとは聞いていたが、行ってみたら、外見から高級マンションそのもので「なんだ全然、変わらないな」と最初は思っていた。
しかし、10数年ぶりに再会した彼は、全くの別人になっていた。以前は太っていて、母親ゆずりの大きな眼が特徴で、芸能人のパパイヤ鈴木に似た感じだったが、痩せ衰えて半分くらいの体になり、肌に艶はなく、一目で病人とわかる様子であった。かつての押しの強さや豪快さも失せており、穏やかで、まるで、深山の修行僧のような雰囲気を醸し出していた。
ベッドに横になったままで語り始め、輸入アクセサリー屋、家具屋、欧州雑貨店、古着屋、レストラン、中古バイク屋といろいろな商売を手掛けたが、潰れたり、雇った店長に金を持ち逃げされたり、騙されたり、権利を人に売ったりと、そんな10年だったらしい。結婚もしたが、浮気癖が直らずに破綻し、そのとき繁盛していた欧州雑貨店は奥さんに渡したという。
1996年に体調が優れないので検査したところ、大腸癌とわかり、手術をして回復したものの、2000年に再発。すでに転移が進んでおり、手遅れで余命半年と宣告され、すぐ近所の専門病院と、このマンションを往復しているが、「宣告から、なぜか1年以上も生きている。医者もいい加減なもんだ」と笑っていた。身の回りの世話を母親と介護士が交代でやっており、訪ねたときは人の良さそうな中年女性がいた。月の半分は母親がいるという意味が理解できた。
用件である借りっぱなしの本について尋ねると、洋書を含む数冊のバイク関係の本を出してきた。 「15年くらい前、譲るって約束して、それっきりだったよ。約束した時点で自分のものでないから、借りっぱなしだね」 そんな約束は覚えていなかったし、絶版本も含まれていたので遠慮したところ、
「不思議なんだ。肝臓や膵臓、リンパと体中がボロボロで食欲もないのに脳は活性化していて、恐ろしく細かい事まで思い出せる。医者は信じちゃくれないが記憶を手繰っていくと、頭の中に情景が蘇って、会話まで思い出せる。あのときの会話も思い出せるよ。本当に約束したよ。それに、どんな稀少本であれ、もうすぐ俺には用なしになる。この意味がわかるよな?」
ここまで言われれば、もらうしかない。あとは昔話と共通の友人の消息、そして、バイクと模型の話。帰ろうとするたびに「今日は調子が良いので、もっと居てくれ」と幾度も引き留められたが、病人相手なので2時間弱で切り上げた。 「また、調子が良くなったら電話するよ。ところで、ベネリ・クワトロは買ったか?」ベネリ・クワトロ(注:イタリアのベネリ社の250cc4気筒バイク)どころか、もうバイクには乗っていないぞと告げると「昔、成功したら、ベネリ・クワトロを買うと言っていたよ」相変わらずの自転車操業生活で成功には程遠いと返すと笑って「家族がいて健康に生きていて、こなすべき仕事を持っている。いいじゃないか」別れ際の最後の言葉であった。
Mの兄から電話があった2日後に1個の小さな宅配便が届いた。 「生前、本人が渡して欲しいと言って残したカメラがあります。愚弟の形見として納めていただけますか?」箱から出てきたのは、レンズが前蓋式に収納されるドイツのミノックスの小型カメラであった。
昔、バイク用ジャケットのポケットに収まる小型カメラが欲しいというので、一緒に銀座のカメラ屋に買いに行った。電池を入れてみたが壊れており、露出計が動かずシャッターも落ちなかった。
彼はカメラの故障を知らなかったのか?それとも、何かのメッセージを伝えるために、敢えて壊れたカメラを残したのか?ただ、カメラが壊れているとわかった瞬間、彼の死が、頭の中の理屈ではなく、実感として、強烈にのしかかって来た。
今から6年前の2002年7月末に、古い友人のMの長兄から一本の電話があった。敢えて意図的とも思えるような淡々とした口調で、5月に彼が亡くなったと告げた。そして一呼吸おくと
「故人の希望で、葬儀は親族だけの密葬とし、友人や知人への通知は、四十九日を過ぎてからだったもので…」
と、こんなにも連絡が遅れてしまったことを丁寧に詫びていた。
友人とは言っても、M氏は二才年上で大学時代にバイト先で知り合った。実家は地主で不動産業と運送会社、倉庫業を経営する資産家で高校時代から父親のアメリカ製オートバイ、ハーレーダビッドソンに乗り、大学入学と同時にコルベットとBMW R90Sを入学祝いとして新車で購入してもらい、車はフォードのマスタングを経てポルシェ911に変わり、卒業後は定職に就かず、自分捜しの名目で綺麗な女性を追い求め、全国を放浪していたと言えば、大体、人物像が知れるだろう。
正直に言って「違う世界に住んでいる人間」だったので親密にしていたわけではなかったが、猛烈に模型とバイク好きだったので、妙に話が合い、模型店巡りに付き合ったり、一緒にツーリングに行ったりはした。
私が模型店を始めた頃は、たまに遊びに来てもくれたが、ある時「輸入アクセサリーの店を始める」と言ったのを最後に、ぷっつりと来なくなり、私も忘れていた。 ところが2001年の年末に突然、本人から連絡があった。
「部屋を整理していたら、借りっぱなしの本が出てきた。返したいので、すぐ会いたい」
そもそも本を貸した記憶はなかったし、年末の忙しさもあったので、年明けか、急ぐなら送料着払いの宅配便で送ってくれと頼むと、どうしても手渡ししたいし、なるべく早く会いたいと言う。相変わらず勝手だなと思いながらも、教えてもらった都内のマンションを訪ねた。
家族四人が余裕で暮らせる部屋を借りて一人で住んでおり、月の半分くらいは、母親が様子を見に来るとは聞いていたが、行ってみたら、外見から高級マンションそのもので「なんだ全然、変わらないな」と最初は思っていた。
しかし、10数年ぶりに再会した彼は、全くの別人になっていた。以前は太っていて、母親ゆずりの大きな眼が特徴で、芸能人のパパイヤ鈴木に似た感じだったが、痩せ衰えて半分くらいの体になり、肌に艶はなく、一目で病人とわかる様子であった。かつての押しの強さや豪快さも失せており、穏やかで、まるで、深山の修行僧のような雰囲気を醸し出していた。
ベッドに横になったままで語り始め、輸入アクセサリー屋、家具屋、欧州雑貨店、古着屋、レストラン、中古バイク屋といろいろな商売を手掛けたが、潰れたり、雇った店長に金を持ち逃げされたり、騙されたり、権利を人に売ったりと、そんな10年だったらしい。結婚もしたが、浮気癖が直らずに破綻し、そのとき繁盛していた欧州雑貨店は奥さんに渡したという。
1996年に体調が優れないので検査したところ、大腸癌とわかり、手術をして回復したものの、2000年に再発。すでに転移が進んでおり、手遅れで余命半年と宣告され、すぐ近所の専門病院と、このマンションを往復しているが、「宣告から、なぜか1年以上も生きている。医者もいい加減なもんだ」と笑っていた。身の回りの世話を母親と介護士が交代でやっており、訪ねたときは人の良さそうな中年女性がいた。月の半分は母親がいるという意味が理解できた。
用件である借りっぱなしの本について尋ねると、洋書を含む数冊のバイク関係の本を出してきた。 「15年くらい前、譲るって約束して、それっきりだったよ。約束した時点で自分のものでないから、借りっぱなしだね」 そんな約束は覚えていなかったし、絶版本も含まれていたので遠慮したところ、
「不思議なんだ。肝臓や膵臓、リンパと体中がボロボロで食欲もないのに脳は活性化していて、恐ろしく細かい事まで思い出せる。医者は信じちゃくれないが記憶を手繰っていくと、頭の中に情景が蘇って、会話まで思い出せる。あのときの会話も思い出せるよ。本当に約束したよ。それに、どんな稀少本であれ、もうすぐ俺には用なしになる。この意味がわかるよな?」
ここまで言われれば、もらうしかない。あとは昔話と共通の友人の消息、そして、バイクと模型の話。帰ろうとするたびに「今日は調子が良いので、もっと居てくれ」と幾度も引き留められたが、病人相手なので2時間弱で切り上げた。 「また、調子が良くなったら電話するよ。ところで、ベネリ・クワトロは買ったか?」ベネリ・クワトロ(注:イタリアのベネリ社の250cc4気筒バイク)どころか、もうバイクには乗っていないぞと告げると「昔、成功したら、ベネリ・クワトロを買うと言っていたよ」相変わらずの自転車操業生活で成功には程遠いと返すと笑って「家族がいて健康に生きていて、こなすべき仕事を持っている。いいじゃないか」別れ際の最後の言葉であった。
Mの兄から電話があった2日後に1個の小さな宅配便が届いた。 「生前、本人が渡して欲しいと言って残したカメラがあります。愚弟の形見として納めていただけますか?」箱から出てきたのは、レンズが前蓋式に収納されるドイツのミノックスの小型カメラであった。
昔、バイク用ジャケットのポケットに収まる小型カメラが欲しいというので、一緒に銀座のカメラ屋に買いに行った。電池を入れてみたが壊れており、露出計が動かずシャッターも落ちなかった。
彼はカメラの故障を知らなかったのか?それとも、何かのメッセージを伝えるために、敢えて壊れたカメラを残したのか?ただ、カメラが壊れているとわかった瞬間、彼の死が、頭の中の理屈ではなく、実感として、強烈にのしかかって来た。
品番V-01 シュビムワーゲン type128
GUMKAのレジンキット第一弾で、1998年11月に発売されました。
「シュビムワーゲンってタミヤからプラモデルあるよね?」
そりゃーもう沢山の人から言われましたが、タミヤのプラモはType166で、このType128は、その前身です。
実車開発の発端は、空軍から出された降下猟兵(空挺部隊)用のサイドカーの代替車輌でした。空軍が兵器局に要求した仕様は、最低でも4名(サイドカーは3名)の乗車が可能で、水陸両用性能を有すること。つまり側車付きバイクじゃなくて、水に浮く自動車でした。
この仕事に手を上げたのが総統閣下もお気に入りの自動車技師、フェルディナント・ポルシェ博士。主要コンポーネントを、VW社のキュベルワーゲン type82から流用し、ほぼ要求どおりの試作車を1940年秋に3台完成させました。これがType128です。
軍の審査は翌年春まで行われましたが、結局、Type128は空軍には制式採用されず。仕方なくポルシェ博士は、陸軍への売り込みを図る一方で、よりコンパクトなサイズで価格も安いType166の開発に着手します。
水陸両用の野戦指揮車として、Type128を導入した陸軍でしたが、Type166が完成すると、そっちを採用したため、Type128の生産は1942年に中止されました。生産台数は確認されているだけで40台で、最大150台という説もあります。一部は無線誘導式の自爆車輌type129に改造されました。
キットの内容は、車体本体、シートなどがレジンで、スクリュー、サスペンションなどはホワイトメタル、細部部品とホイール、ハンドルなどは、Bego/ドラゴン製のインジェクションパーツ、さらにエッチングパーツもセットした複合素材キットで生産個数は200個で、品番はV-01でした。
原型を担当したのは、当時、模型誌のライターをしていた佐藤 豊氏で、本業のCMの小物製作の技術を生かした緻密な仕上がりでした。余談ですが、この製品の発売時期と店舗の移転が丁度重なり、しんどかったのを覚えています。